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サイコパスについて考えてたらHUNTERXHUNTERと言峰綺礼の話になった

雑記 Fateシリーズ HUNTERXHUNTER

もう少し考えがまとまってから投稿したかったがそれだと永久に公開できそうにないので現時点でのまとめとして上げます。ちょっと他人の意見を聞いてみたいので。倫理の話になると思う。ちなみに現在テレビで放送中のアニメ「PSYCHO-PASS サイコパス」とはあんまり関係ないです。「サイコパス(Psychopath)」の方。

 

以下閲覧注意。残酷な表現、ショッキングな画像が登場します。

 

 

 

 

 

そもそもサイコパスが気になりだしたのは、少し前にネットサーフィンしている時にたまたま「北九州監禁殺人事件」のことを知ったのがきっかけだった。たぶん「日本犯罪史上最悪の事件って何よ?」みたいなタイトルの記事だったような気がする。どのくらい有名なのかよく分からないけど、個人的には日本犯罪史上最悪の事件だと思う。気味の悪さという点において。

 

北九州監禁殺人事件(Wikipedia)

 

以上のWikipediaの記事はイマイチ分かりづらいので、概要をつかむには以下サイトが短くまとまっていてお勧め。繰り返すけど閲覧注意。俺が初めて読んだ時はそれはそれは強烈に気分が悪くなりました。

 

一家惨殺〈◆松永太・緒方純子(北九州一家監禁殺人事件)の項〉

 

今「北九州監禁殺人事件」でGoogle検索して上記サイトを引っ張ってきたんだけど、ふつうなら続いて出るサジェストが全く出ずに驚いた。「北九州 殺人」や「北九州 監禁」で試しても同じ。また、一年前には同キーワードで検索すれば確か2,3番目に出てきた上記サイト「一家惨殺」も出ず、見つけるのにうろ覚えの記憶を辿ってだったので少し面倒だった。Googleもこういう記事については検閲を強化しているんだなあ。まああんまり子供に見せたい情報ではない・・・。

 

閑話休題。気分が悪くなったというだけなら「女子高生コンクリート詰め殺人事件」のことを知った時もそうだし、殺害方法の物理的な残虐性では他にもひどい事件はあるんでしょうね。あんまり熱心には調べないけど。しかし、この北九州の事件が特異なのは別の点で、それを端的に表しているのが以下の画像。

 

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 コラ画像ではないです。これだけだとさっぱり分からないので付け足すと、この事件の主犯は右上の方の男「松永太」で、そいつがすぐ左の「緒方純子」を操って彼女の家族を精神的、肉体的に支配。監禁して社会とのつながりを断ち、搾り取れるだけの金銭を搾り取り用済みとなった後は、自らは直接的に手を下さず、家族同士で殺し合いをさせている。写真右下の少女(殺害された家族の一員ではない)が運良く脱出に成功して事件は発覚するんだけど、死体も残っていないし被害者の血縁との縁も徹底的に消されていて、完全犯罪が成立する一歩手前まで来ていたらしい。事件が明るみに出たのは、これは本当に僥倖としか言いようがない。それくらい、松永の支配の手際には見事なものがあった。

 

ところで先週、今週のスピリッツの「闇金ウシジマくん」で、この事件とそのまま同じ手口が使われててびっくり。

 

上で挙げたサイトを見ていた時、気分が悪くなったと書いたけどそれだけではなく、何というか全く理解が追いつかなかった。自分の手持ちの度量衡ではここで何が起こったのかがどうにも分からない。女子高生コンクリ事件などは頭のおかしいガキがやらかしたこととして、恐ろしいことには変わりないがまだ納得できるけれど、これは一体なんなんだろう、さっぱり分からん……。大の大人が何人も揃っていてたった一人の男に口車だけで支配されるものなんだろうか。いくらでもやり返すチャンスはあったんじゃないかな…。

 

どうにも引っかかったのでこの事件について片手間に少し調べてみることにした。

 

まず初めに読んだのは以下の本。

 

消された一家―北九州・連続監禁殺人事件

消された一家―北九州・連続監禁殺人事件

 

松永がどのようにマインドコントロールを施していったか、監禁生活はどうやって行われ、いかに家族同士を殺し合わせたのか(といってもバトル・ロワイアル的なものではなく、被監禁者の中にも序列が存在し、序列が下位のものから他の家族の同意の上で協力して殺害されていった)、証拠の残らない死体の処理方法(処理も全て家族同士で行われている)などがかなり詳細に語られている。

 

これで事件のある程度のアウトラインが分かった。不思議と、上のサイト「一家惨殺」を読んだ時の得体の知れない恐怖はこの本を読み進めるにつれ少しずつ薄れていったことをよく覚えている。洗脳の手口がかなり段階を追って書かれていたので、次第に抵抗できなくなる被害者の心理が僅かなりとも理解できたからだろうなあ。

 

しかしこの本を読んで違う点がひっかかるようになった。以下同書からの引用で、事件が発覚し、法廷で主犯の松永が自説を披露している時の様子を描いた箇所。

 

「この種の供述は、枚挙にいとまがない。いずれも法廷が寄席と化したかのように笑いに包まれた。」(p199)

 「最後の舞妓うんぬんの話は、松永特有のサービス精神を発揮して、退屈している傍聴人を笑わせようとしたのだろうか。そして、実際に大変ウケると、松永は御満悦な様子でさらに調子よくしゃべりまくるのだった。」(p219)

 

法廷で松永の話を聞いている人たちは、話をしている人物が残忍な連続殺人を指揮した張本人と言うことは重々承知しているはず。被害者の関係者など、強い憎しみを抱いて傍聴席に座っている人も居たかもしれない。それにもかかわらず、嘘八百であると理解していても、彼の話はあまりにも面白くて笑わずにはいられない。ちょっとこれとんでもない能力じゃないですかね。相手を笑わせることが出来るのはその人を強く支配していることの証明でもあるけれど、松永の人心掌握の力はそれこそ普通の人間離れしていると思う。

 

歴史上には沢山のシリアルキラーがいて、そうした人たちが「後ろめたさ」やいわゆる「良心の呵責」を感じる脳の部位が壊れている、またそれゆえに常人には無い魅力を備えているという話はそれ以前にも聞いたことがあったけれど、正直何か遠い世界の話のように感じてあまり興味を引かれなかった。モデルが居るとはいえ、「羊たちの沈黙」のハンニバル・レクターはあくまでフィクションのキャラクターとしか思えなかった。しかしこの北九州の事件は、なんだろう、日本的な「湿度」を感じたというか、何にせよ奇妙な身近さを感じて。実際俺がこういう人間に出会ったらどうすればいいのだろうか。サイコパスとはどういう存在なのか。具体的な恐怖を感じたので、もう少し実践的なところまで学ぼうと思った。

 

そこで読んだのが次の本です。

 

良心をもたない人たち―25人に1人という恐怖

良心をもたない人たち―25人に1人という恐怖

 

この本では、シリアルキラーほど凶悪ではないけれど、周囲の人間に気づかれること無く社会の中に紛れ込んでいて、他人の人生をめちゃくちゃにするサイコパスの例が数多く挙げられている。この本の書かれたアメリカでは25人に1人の割合でサイコパスは存在するという。このパーセンテージは地域差があり、東アジア、特に日本と中国ではこの割合はかなり低くなるのだとか。しかし例えば300人に1人の割合でサイコパスが存在するとしたら、ごく一般的な人付き合いをしている人なら、一生で一度はそういう人に関わることになってもなんら不思議ではない、というか全く関わることなく一生を終えるほうがレアケースなんじゃないの。自分の人生を振り返ればやはり「平気で嘘をつく人間」というのに数人は心当たりがある。

 

で、どうしてこういう人間が生まれてしまうのかその原因については、現時点ではよく分かっていないらしい。幼児期の虐待やスキンシップの不足などが将来に悪影響を及ぼして、そうした人たちはサイコパスと多くの類似点はあるけれども、同じものと考えることはできない。サイコパスかどうかは57%は遺伝的要因で決定されてしまい、何に対しても愛着を持つことができず、良心を持たず、ただ「勝つこと」「支配すること」しか望めない、とのこと。

 

で、具体的にそうした人々にどう対処すれば良いか、という問いに著者のマーサ・スタウトはある程度クリアカットに答えを用意している。以下その対処法。

 

1.世の中には文字通り良心のない人たちもいるという事実を認めること

2.自分の直感と、相手の肩書き(教育者、医師、指導者、動物愛好家、人道主義者、親など)が伝えるものとのあいだで判断が分かれたら、自分の直感にしたがうこと。

3.どんな種類の関係であれ、新たなつきあいがはじまったときには、相手の言葉、約束、責任について、「三回の原則」をあてはめてみること。 あなたの、大事なものを「三回裏切った相手」にゆだねてはいけない。

4.権威を疑うこと。

5.調子のいい言葉を疑うこと。

6.必要なときは、尊敬の意味を自分で問いなおすこと。

7.ゲームに加わらないこと。

8.サイコパスから身を守る最良の方法は、相手を避けること、いかなる種類の連絡も絶つこと。

9.人に同情しやすい、自分の性格に疑問をもつこと。

10. 治らないものを、治そうとしないこと。

11.同情からであれ、その他どんな理由からであれ、サイコパスが素顔を隠す手伝いは絶対しないこと。

12.自分の心を守ること。 サイコパスに何を言われても気にしないこと。

13.しあわせに生きること。

 

3番については、3回まで許すというのはかなり辛抱がいるとは思うけれどね・・・。何にせよ、自分の持つ倫理についての常識が全く通用しない人間が居るということを認めることと、「触らぬ神に祟りなし」 、これに尽きるんじゃないかな。ケーススタディという意味で上の本はとても参考になりました。

 

《他の参考サイト、本》

 

 サイコパスとは何か?-私たちが知っておくべき善意を持たない人々

 

診断名サイコパス―身近にひそむ異常人格者たち (ハヤカワ文庫NF)

診断名サイコパス―身近にひそむ異常人格者たち (ハヤカワ文庫NF)

 

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サイコパスへの対処法については、取り急ぎはこれで問題ないと思う。これ以降はちょっとテーマが変わって、倫理についての話。

 

ついでに続いて読んだ本がこちら

 

サイコパスを探せ! : 「狂気」をめぐる冒険

サイコパスを探せ! : 「狂気」をめぐる冒険

 

タイトルが秀逸。社会に潜むサイコパスを見つけてそいつらを離れたところに隔離せよ、という姿勢は本当に正しいのか? と問う本。ジャーナリストの著者の結論は、「誰にでもサイコパス的なところはあるし、医者でもない自分が軽々に判断できるものでもない」というもの。人をある基準で判断(この分野の第一人者ロバート・ヘアによるサイコパス・チェック・リストがこの本では繰り返し使用される)して裁いて、自分は安全な場所に居られるかもしれないが、果たしてそれでいいのか、と。

 

実際に超極悪なサイコパスに関わる羽目になって、そいつが危険なやつだと確信したら一目散に逃げるしか無いとは思うが、常に人を査定する目線を持つというのはお互い息苦しいし傲慢だわな。そもそも人を査定する目線=「私はあなたを信用していません」というメッセージをどうしても与えてしまう訳で。もちろん人は皆目の前の人を評価して評価されて生きるしか無いんだけど、その評価が「こいつは良心がない、人を愛せない、人間ではない、サイコパスだ」っていうのはちょっとね・・・。何様だよ、お前もサイコパス的な所が全然無いって言い切れるのかよ、と。

 

 

 

こっからちょっとフィクションのキャラクターを考えてみたい。私が思い出したのが漫画『HUNTERXHUNTER』に登場する多くの悪役と『Fate』シリーズのラスボス言峰綺礼でした。

 

HUNTER×HUNTER 32 (ジャンプコミックス)

HUNTER×HUNTER 32 (ジャンプコミックス)

 

 

例えば、HUNTERXHUNTERに登場する幻影旅団のメンバーって、世間一般の倫理が全然通用しないんですよね。「殺してはいけない存在」の範囲がすごく狭い。彼らにとっては幻影旅団のメンバー以外は「殺してもいい」。それも別に不変ではなくて、メンバーですら「殺してもいい」範囲に含まれることもある。だけど、「殺してはいけない」範囲に含まれる存在に対しては、本当に誠実でかっこいいんですよ。ウヴォーギンの死の後にゴンと腕相撲するノブナガが泣きながら「あいつが戦って負けるわけがねェ 汚ねェ罠にかけられたに決まってる!! 絶対に許さねえ 何人ぶっ殺してでも探し出す」って語るところは、読んでいてきつかった。他にも彼ら相互の信頼を示す何気ないシーンというのが沢山あって、本当にいい人間関係を築いているんですよ、たいてい盗んだり殺したりしてるけど。彼らは他人を思いやることができない、単に利己的な人間という訳ではなくて、「殺してはいけないもの」の範囲がものすごく狭いというだけ。この辺はペトロニウスさんの以下の記事で書かれていることをほぼリピートしているだけです。大好きな記事です。

 

『HUNTER×HUNTER』 23巻 富樫義博著/偉大な物語の本質について

 

クラピカがそのウヴォーギンを殺すシーンなんだけど、これ初めて読んだのって俺は小学生か中学生の頃か、多分よく理解できていなかったと思う。この2人、全く対話が成り立っていない。鎖でウヴォーギンの自由を奪って一方的に痛めつけるクラピカは次第にたまらなくなってウヴォーギンに質問を投げる。それまでの質問全てがどうでも良くなるような、質問。

 

「実に不快だ 手に残る感触 耳障りな音 血の臭い 全てが神経に障る なぜ貴様は何も考えず!! 何も感じずに こんなマネができるんだ!! 答えろ!!」

 

これって、自らの一族の仇で、今すぐにでも殺したい相手とはいえ、クラピカはウヴォーギンを「人間」として認識しているってことなんだろうなあ。クラピカの悲劇はここだな・・・。そんでウヴォーギンにとっては目の前のクラピカはまあ言ってしまえば、たまたま同じ言葉を話すことができる虫、くらいの認識。

 

あ、すげえこれ蟻編の数々の名シーンにも劣らない。

 

HUNTER×HUNTER 10 (ジャンプ・コミックス)

HUNTER×HUNTER 10 (ジャンプ・コミックス)

 

 HUNTERXHUNTERでは他にもゲンスルーとか、メルエムとか、様々に魅力的な悪役が沢山登場します。それぞれに違う「殺してはいけない」線引を持っていて、その線の中では非常に慈悲深い、格好良いやつらばかりです。蟻編のラスボスのメルエムはその線引を他種族にまで広げるブレイクスルーがあったり、また逆に、化け物になってしまったかつての同胞を人間と認めて本気で殺してやる幻影旅団や、蟻になってしまった娘を受け入れる母親やその村民など。

 

あとはイルミとヒソカをどうやって描いていくのかが本当に楽しみでならない。あの2人は他の悪役とはまた別の意味でぶっ飛んでますよね・・・。特にイルミのあの家族本意なのか自分本位なのかよく分からない判断基準に興味がある。

 

 

 

Fateシリーズのラスボス言峰綺礼もちょっと変わった人で、生まれつき、「他人が美しいと感じるものを美しいと感じることができない」という性格を持っています。逆に、他人が苦しむ姿を見ることや、醜悪なものしか愛せないという性格の中々に素敵なキャラです。いや現実にいたら迷惑極まりないけどさ。

 

で、彼が魅力的なのは、というかピエロだなーと思うのは、20代半ばまでその自分の生まれつきの性質を認めたくなくて、「他人が美しいと感じるもの」を自分も美しいと感じるため、あらゆる努力を尽くすところなんだよね。仕事でも圧倒的な成果を残し、貞淑な妻にも子供にも恵まれる。それでも、妻が死ぬ時も、尊敬する父親が死ぬ時すら全く悲しいと思うことができない、むしろ「この手で殺せなくて残念だ」とか感じてしまう。それで『Fate/Zero』では愉悦部部長のギルガメッシュ大先輩の教えに出会い、いろいろと吹っ切れてシリアルキラー&コンダクター街道を邁進するようになります。

 

俺はこの言峰綺礼がすごい好きで。いや本当に現実にいたら困りますよ、自分の子供が拉致監禁されてダルマにされてチューブ繋がれて魔力供給源にされるとか考えるだけで吐き気がする、大事な人が殺される前に殺すわ、言峰の八極拳で瞬殺返り討ちだろうけど。でも、一人の人間が生きていて、他人の意見など関係なく自分が本当に喜びを感じることを探し求めて、最後にたどり着いた道があって(それが他人を殺したり貶めたりすることなのだが)、それは自分の生き方が見つかって良かったね、と思う。他の人が「価値がある」とするものが彼には全くそうは思えなかった。それを理解しようと人生の全てを捧げて努力したが全く理解できなかった。そこで今まで目を逸らし続けてきた自分の本性に向き合い、他人の意見など関係なく、自分が本当に喜びを得られる道を歩む。うん、これって人間としてとても大切なことでしょう。こういうやつが道徳的に、絶対的に間違っているとは俺は思わない。俺がもし言峰綺礼と同じ世界に生きていたとして、彼に対して個人として言えるのは、「自分の大切な人間がお前に殺されるのは嫌だからお前を殺す」ということであって、俺が正しいからそいつを裁く権利があるわけではない。

 

 

 

倫理って時代によって、地域によって、慣習によって、信仰によって、集団によって、その構成員の感じ方によって全く変わってくる。極端なことを言えば、構成員というものを認めず、自分一人しか「殺してはいけない」範囲に含まない人間も当然いるでしょう。これをかなり強引に固定して「これは普遍的なものである」として作っているのが法で、本当に便宜的なものでしかない。人がその時々に適当に決めているに過ぎない。日本だって一般の人が人を殺すことを法的に認めていた時代もあったらしいし。そもそも現代に死刑制度があるってことは殺人のもつ重みを税金を払って他人に肩代わりしてもらっているだけだし、終身刑だって婉曲な死刑ということも出来る。(参考:ガンスリンガーガールを読んで - まんが・アニメ・法解釈における理屈と人情 

 

こうして考えるとそりゃあ宗教を求める気持ちも分かるわ……。倫理の正当性を保証してくれる絶対的な審級があったとしたらやっぱり楽だもん。

 

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サイコパスのような存在を知ると、本当にいろんな人がいるんだなあ、と思う。じゃあそれで「善悪は人それぞれ」「利害が対立したら即戦争」と言い切れるか、と問われればそれはできない。完璧な相対主義って思考停止で怠惰な感じがしてあんまり好きじゃないし。何かしら共有できるガイドラインのようなものが欲しい。せめてヒントだけでも・・・!

 

で、人の奥深いところに内在していて、倫理(もっと言えば、真善美)に先立つものってなんだろう、と考えたとき思い浮かんだのが、「自らの能力を十全に発揮する欲望」だった。この辺は以下の本も参考になってます。

 

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

 

この本の中では、「定住革命」という概念が紹介されていて、そこでは人間の居住形態についてこんな説明がされている。曰く、人間は農耕技術を獲得することが出来たからこれ幸いと定住生活を始めた、のではなく定住せざるを得なくなる環境になってしまったから仕方なく農耕やその他の技術を身につけた、とのこと。農耕技術は原因では無く結果として得たもので、そもそも人間は一つ処に定住するのではなく遊牧民として各地を移動しながら生活するのが本来の姿で、生物学的にもそのようにできている、と。移動しながら生活すれば、その時々の新しい環境に適応するために人間の能力は十二分に発揮される。退屈する余裕がない。近代人の退屈の原因は、遡れば人類が遊動生活をやめて定住を始めたことにある。その論拠として、赤子が決まった所で排泄をすることをしつけることの苦労を挙げるあたり面白かった。遊動生活なら、住処が汚れたら移動すればいいだけだしね。

 

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

 

じゃあ今から遊動生活に戻れるのって言われたらそれは無理だわな。そもそも昔と今じゃ人口の桁が何個違うか分からん。それでも遊動生活のキモはどこにあったのか、と考えるのは有益だと思う。それが上記の「自らの能力を十全に発揮する欲望」を満たすこと、だった。このガイドラインならば一応、松永太も幻影旅団も言峰綺礼も一望することができる。ちなみにニーチェ力への意志って、「永遠回帰」とは違って長いこと今ひとつピンと来なかったんだけど、こういうことなんじゃねーかなー。

 

ニーチェ〈1〉美と永遠回帰 (平凡社ライブラリー)

ニーチェ〈1〉美と永遠回帰 (平凡社ライブラリー)

 

それを現代で満たすための方法論を語るためには、うーんやっぱり芸術や信仰の分野になるのか。これもブラックボックスに答えを放るようであんまり好かないけれど。何にせよ芸術創作において、既存の「真善美」に依存しない、それから離れて世界を眺めるという、場合によっては醜いものも利用する、という態度はいろいろと参考になる。

 

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まとめると、俺は言峰綺礼というキャラクターのちょっとおかしな誠実さと不器用さがとても好きで、この気持の正体がなんなのかあんまり性急に結論付けず考えたい、ということです。

 

こんなクソ長いしかも結論の無い記事を読んでくれた奇特な方に感謝します。