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誰が誰を裁くのか / 「PSYCHO-PASS サイコパス」感想

  ネタバレ及び作品に対する否定的な意見ありです。だらだらした感想です。

 

PSYCHO-PASS サイコパス VOL.1【Blu-ray】

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PSYCHO-PASS サイコパス」最終話見ました。面白かった。序盤、中盤はどうにもSF的意外性&ときめきを感じられない退屈な作品だったが終盤は悪くなかったと思う(何様だ)。同時に、何を掘り下げて描写するのかをもっと絞り込めたら良かったのに、とも。具体的には、序盤で数件の事件を描く代わりにもっとこの社会のあり方を見せて欲しかった。シビュラシステムが司法を司るところはドミネーターに現れていたし、仕事をシビュラシステムが選択してくれるところや街の様子などから行政も部分的には窺い知れるけれど、もっと厚く描けなかったものかなあ…。ここで物語の強度の土台が決まると思うんだけど。こうやって感想を書くくらいだから一定以上楽しめたのは間違いないが、せいぜい期待していた10分の1くらい。没入感はあんまり無かったが色々考える種になったので、それはそれとして存分に楽しませてもらおうと思う。

  

こういう体感的に微妙な作品を見続ける時に強い動機になるのは全体の出来とは関係ない部分の質の高さで、今回はヒロイン役の花澤香菜さんの演技が素晴らしかった。ヒロイン常守朱ちゃんかわいい。花澤さんは今をときめく大正義声優にもかかわらず、個人的には化物語千石撫子役以降は割とどうでもいい声優でした。しかしこの朱の演技が本当に良かったので、ああやっぱり人気が出るにはそれだけの理由があるのだなあと思った。

 

 長く活躍できる声優ってほぼ例外なく役の幅が広いですね。色々な演技ができる技量があるから長く活躍できるんだろ、というのはもちろんなんだけど、卵が先か鶏が先か、色々な役柄を演じることでそれぞれの役の人格を自分の中に蓄積していくことが出来るんじゃないか。琴浦さんの生徒会長の声が花澤さんだとは最初は分からなかった。100人の役を演じた人はそれだけ声が多声的になる、平たく言えば声の響きがより深くなる、ゆらぎや厚みが生まれると思います。

 

閑話休題。最終話の朱の「法が人を守るのではない、人が法を守るのだ。悪を許せない人の心を、その積み重ねである法を守らなければならない」という一連の独白には痺れた。そして、その過去のあらゆる人の善意の積み重ねであるはずの現在の法がシビュラシステムなんていうくだらないもので、それを守らなければならない朱の屈辱が良く現れていた。ラストのテロップ「正義(システム)の連鎖は、終わらない」ってのが虚淵さんらしい。

  

あかねは最終的にシビュラのシステムの存続を、不本意ながら認める。そりゃああのシステムを全部破壊できたら一瞬は爽快かも知れないが、その後に巻き起こる混乱を考えると得策ではない。クソッたれな現状を嫌々ながらもとりあえずは維持し、並行して別案を探るというのは大人の作法として良いと思う、というかそれ以外に仕様がないわな。

 

もし続編があるというのならば、日本の統治体制、また世界全体の統治体制をある程度詳しく知りたい。また、そうした社会になった背景、歴史が知りたい。どうやら現代から100年くらい未来の話らしいけれど、間違いなく大きな戦争がきっかけとなってああいった体制になったはず。具体的にどんなカタストロフが起きて先人が苦悩し、あんな阿呆なシステムの構築に繋がるのか。ここの描写の弱さが物語に入り込むのに大きな壁になっていたと今では思う。このサイコパスを見ている間に伊藤計劃『ハーモニー』を2年ぶりに読み返したが、その辺りの背景描写にはさすが強烈な納得感があった。『虐殺器官』から地続きの世界で、理屈で行けば自然とそうなるわな、と感じさせる構成力は見事としか言いようがない。

 

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

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ここまでが前置き。最終話を見ながら「誰が誰を裁くのか」ということを考えていた。槙島聖護狡噛慎也によって裁かれた。一方、この社会では全ての人間はシビュラシステムによって裁かれている。シビュラシステムとは何か、と言うと過去の優秀(とされた)複数人の脳味噌を使って構築された高度な(?)演算システムを指す。何が悪くて何が正しいのか、誰がまともで誰が異常なのか、その人にあった職業は何なのか、今日の朝食は何を食べるべきか、を全て考えて結論を出してくれるとっても便利なシステム。しかしこのシステムには欠陥があり、その演算システムに使用されている複数人の脳味噌の理解を超える人間がいた場合、どれだけ悪辣なシリアルキラーだとしても「異常」とは感知できない。槙島聖護がそれだった。もうひとつの欠陥は、シビュラに従って生活する人間の自ら判断する能力、それに基づく行動の結果の責任を負う能力を著しく減退させる点にある。

 

衆人環視の中で人が殺されるところで、観衆が全くリアクションが取れないシーン、野次馬の「何かの間違いだと思った」という向きのコメントにはSF的ときめきを感じられた。理解の隔絶した世界がそこにはあるという強烈な納得感。あらゆる判断を外部に委託しきった社会では、そういうことも当然起こりうるだろうな、と。

 

しかしそもそも法って何かに対する判断の責任を分担するねらいもありますよね。人一人が他人を裁くというのは裁く側も裁かれる側にとっても非常にストレスフルで、だから人間は長い歴史をかけて法を作り、その過程に大勢を関与させることで罪の意識を分散した。人を裁く重みを薄めた。そして重みは法に背負ってもらうことにした。これは別に悪いことじゃあないと思う。しかしそれが行き過ぎると、あまりにも裁く主体が人間から離れてしまうと(このシビュラシステムのように)、何かが狂い始める。人を裁く重みを完全に外部委託にしてはいけないよね、という話。 

 

狡噛慎也が背負った、というよりも取り戻すことになったのはその重みだった。狡噛が槙島を射殺することで、自分で何か大事を判断すること、その重みを過剰な形ではあるが取り戻している。そして、あのシビュラシステムに統治された社会においてはそれは異端でしかありえない。狡噛はあの社会で二度と表に出ることはできない。表に出ることがあるとすれば、シビュラシステムが完全に崩壊した時になるんだろうな。

 

誰が誰を。これまではシビュラが人間を裁いていた。しかし、裁かれる側もそれでは人間ではいられないのだ。槇島は狡噛に裁かれることで人間になれた。狡噛が槇島を射殺する場面には、互いの互いに対する深い愛情を感じた。彼らはお互いを交換不可能な相手として認識できた。得がたい関係性だと思う。そして、現時点のこのシビュラに支配された社会において人間が十全にコミュニケーションを取ろうとすると、ああゆう形にしかならないのではないか。狡噛が槇島を殺した場面で常守朱が流した涙が単なる悲しみからのそれではないことを願う。

 

しかしこのシビュラシステムの何が気に食わないって、「私たちは人間のあるべき姿を知っている、あなた方の進むべき道を知っている、私は全てを知っている」というその傲慢さだなー。あの面白空間でびゅんびゅん動く脳味噌の主がどんだけ頭いいのか知らないが、なんつーか今晩何を食うかとか仕事何をやるべきかとかをいちいちサジェストしてくるなんて大きなお世話にも程がある。酒を浴びるように飲んで存分に体を痛めつけたい時なんていくらでもある。そしてそうした「不健全な」欲望は、人間の大事な条件の一つだ。

 

人間が自分の意志で判断することって本当にそんな高尚なものなの? という問いはまた別に考えたい。