「気に入らないなら読まなければいい」のガイドライン

本記事の要約:「MK2さんに粘着する馬鹿は脳味噌を洗濯機で洗って1年くらい陰干ししとけばいい」

 

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引っ越します  - 24時間残念営業 

 

はてなのコンビニ店長ことMK2さんがブログ「24時間残念営業」を書いていてどうにも粘着質な人に嫌がらせを受けていたらしく、ブログをどこか別のところに引っ越すとのこと。ブログをもうやらないとか予告なしに消えるとか(前回のブログG.A.W.のように)では無いのでそこは少しほっとしている。

 

 

MK2さんのブログは2009年くらいからずっと楽しみに読んでいて、意識的無意識的問わず大きな影響を受けている。ちなみにブログタイトル「週刊話半分」は「24時間残念営業」へのオマージュという名のパクリです。昨年、突然ブログ「G.A.W.」を消去して半年くらい音沙汰なく、これまた突然「24時間残念営業」を開始された時はたいそう嬉しかった。

 

MK2さんの書くものはどんな些細な雑記のようなものでも面白く、するすると読ませる筆力および観察力が飛び抜けており、個人的には「テキスト版『よつばと!』をやっているような人だなー」と勝手に思っていた。はてブを見始めたのは最近だから昔はどうだったか知らないけれど、書いた記事はほぼすべてはてなブックマークのトップページに上がっていた。

 

で、なんかそれが気に入らない人がいるらしい。「お前の記事がはてブに毎回出てくるのがウザい」とかMK2さんに言う人がいたらしい。

 

気に入らないなら読まなければいいのに。はてブのトップにあるのも嫌だというならそれも見なければいい。というかポータルページってそういう性質のものでしょうに。

 

と思ったんだが、この「気に入らないなら読まなければいい」の扱いって気をつけたほうがいいかもな、と感じたので少し書きだしてみる。

 

「気に入らないなら読まなければいい」と言って問題ないもの

ブログ。趣味の雑誌。

 

問題があるもの

新聞。

 

今ぱっと思いついたものが以上だったので著しく網羅性に欠けるがまあいい。

 

理由

なぜそう思うか。ブログや雑誌は、「専門性が高く」「ターゲットがある程度はっきりしている」から。読者としては予め「このコンテンツは自分に合っているかどうか」を判断することができる。少なくとも1回立ち読みでもして気に入らなかったら二度と手に取らなければいいだけの話だ。その人が気に入らなかったとしても他の人にとっては意味があるのだろう。どれだけ多くの人に読まれるようになったとしても、これらはどこまでもプライベートなもので、内容もプライベートなもので問題ない、と思う。

 

で、まず新聞ではなぜ問題があるかというと「誰が読むか分からない、不特定多数に向けたもの」だから。公共性が高いから。子供が読むかもしれないしじーさんばーさんが読むかもしれない、どんな宗教的、思想的背景を持った人が読むか分からない。内容的にも一応誰が読んでも構わないような配慮がなされるべきだとはと思う(いわゆる大手の総合新聞をイメージしています。ゴシップや専門的な新聞は除外)。

 

これって「選択権がどのくらいあるか」、その割合に依存する、って話なのかな。新聞ってもちろん何を読むかを選ぶことはできるけれども、一度選べば基本毎日同じ物を読むことになるし、しょっちゅう変えるものでもない。また、例えば子供が自分の家でどの新聞を読むかを決めることって考えにくい。家で取っている新聞があればふつうそのまま読むだろう。まあ新聞なんて読まねーよと言われればそれまでだけど。

 

雑誌やブログは、というかインターネット上のコンテンツは基本全部読み手が何にアクセスするか選択できる。上記のブログを読むのも自由、読まないのも自由。はてなブックマークのトップページを読むのも自由、読まないのも自由。なのでMK2さんのブログの内容が気に食わない、はてブに載るのも気に食わないとか言っているやつは本当にアホウだなあ、と思う。思うのだが、公共性の問題についてもうちょい書いてみる。

 

公共性の過渡期

上で「新聞」と言う時に俺は特に意識せず紙の新聞をイメージしていたけれど、今は日経でも朝日でも読売でも産経でも毎日でもネット上に自社のニュースページを持っていて、そこで新聞とほぼ同じ内容を発信している。紙の新聞と変らない公共性の高い空間を作っている。また、以前は「ネット上の情報は嘘ばかり」というのが割と当たり前のように言われていて、情報の信頼性においてはどこまでも紙媒体>ネットだった。今でも基本は変らないけれど、ネット上の情報の信頼性や公共性はどんどん増していると感じる。人から名刺をもらった時、その人が所属する会社のホームページをみて、それがどのくらいきちんとしたページかどうかチェックすることなんかは別に僕に限ったことではないと思う。きちんとしたページなら当然印象はいい。

 

ネット上の情報に対してどのくらいの信頼を置いていいのか、公共性を求めてもいいのかということに対してはっきりとした基準が無くて、しかもそれが今まさに大きく変わり続けている時代なのだと思う。だからこういうトラブルも起こる。

 

で、たとえばMK2さんに粘着していた人が、はてなブックマークのトップページにも紙の新聞なみの公共性を期待しているとしたらどうだろう。もっと酷い場合、MK2さんのブログに対してもそうだとしたら。いや、期待とかそういうオプション的なものではなく「最低限の義務」とすら考えているとしたら。

 

実際はどうかなんて知りませんよ。単に気に食わない、というだけかも知れない。だけどそれがどのくらいの公共性を要求できるコンテンツかどうかってのは自分で判断することが大事になると思うんだけど。紙媒体かネット上かを問わず。はてなブックマークも別に新聞並みの公共性など目指していないでしょう。下ネタも結構トップページに載っているし。

 

しかし、たとえ一日数万のページビューがあり、ちょっとしたメディアと言える規模のブログだからといって、強い影響力を持つからといって、個人で好きにやっているブログに対して「もっと周りに配慮しろ」と言うのはどうなの。規模の大きさと責任の大きさを混同しないで欲しい。というかMK2さんのあのクッソ面白いテキストが読めなくなるのはとても困るのでアホウなことはしないで欲しいというのが何よりも言いたいことです。

 

「気に入らないなら読まなければいい」では問題があるのもの・追加

宛先のはっきりしたメール。名指しの批判記事。

 

 

実際ブログの引越しを決めたくらいだからね。粘着していた人が誰かは知らないけど、MK2さんのブログやはてブトップページの暴力性に異議があったんだろうが自身の言葉の暴力性についてはどう考えていたのかな。これはこの記事にも言えるが。

 

 

ネット上のプライベートな記事の面白さ

MK2さんが昔書いた記事で、2010年の3月くらいだったかな、「東京都青少年の健全な育成に関する条例」に関連する二つの記事が忘れられない。もう過去ブログ「G.A.W.」は無いのでそれを読むことは叶わないのだけど(ウェブの海のどっかには漂っているだろうが探す気はない)。詳細は避けるが、というかうろ覚えだが、一つ目の記事がその条例改正に対する割と客観的な意見で、二つ目の記事がそれに対する補足で、「前の記事ではあんな偉そうなことを言っているが俺はロリコンだ」という逆言い訳の記事だったと思う。私の勝手な想像だが、一つ目の記事に対する肯定的な反響に耐えられなかったのではないかな。

  

「おんなのこを評価するたった3つの指標」という記事もあった。タイトルはこれまたうろ覚え。読んだ時の「こんな人間がいるのか…(by 宮本武蔵伊東一刀斎に相対して)」感は凄かった。また、こういうコンテンツを含むことの出来るブログサービスというインフラに畏敬の念を強くした。「顔面騎乗」という言葉をあれほどひどく(褒め言葉)語る文章には初めて出会ったしもう見ることは無いだろう、というかあんまり頻繁に見るようだとヤバい。

 

最近だと以下リンクの記事など読んでいて笑いを堪えるのが大変だった。なんてことない内容のはずなのだけどひたすらに面白い。

 

マッサージに行ってきた - 24時間残念営業

 

 

まとめ

こちらの価値観が揺らぐような記事だったり、腹が痛くなるほど笑える記事だったり、読んでいて途方にくれてしまうような記事だったり、色々あるがこれらの全ては「ネットだから」存在できる記事だった。ひたすらにプライベートな内容で、読む人を選ぶけれど、ハマる人にとっては他のどんな媒体でも実現不可能な面白さがMK2さんのブログにはある。事前に記事の内容のひどさを警告するなど、マナーには色々とかなり気を使っているように俺には見えるし、半社会的なことは書かれていない(?)。

 

MK2さんが嫌いというのは別に個人の勝手だ。しかしお門違いの公共性を求めて絡むのならば、ネット上のコンテンツが全て「誰が読んでも問題ないもの」になって良いのか? と聞いてみたい。そういう方はポータルサイトを読むのも諦めて「安全」で「健全」なサイトだけ巡回して入れば良いのではないでしょうか。

 

公共性の問題はまた色々考えたい。

 

没タイトル案:MK2は滅びんよ、何度でも蘇るさ