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ちょっと自分のネットユースを振り返ってみる /『「いいね」時代の繋がり―Webでこころは充たせるか―』感想

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「いいね!」時代の繋がり―Webで心は充たせるか?―

「いいね!」時代の繋がり―Webで心は充たせるか?―

読みました。著者のシロクマ先生の現役精神科医としての豊富な知識(臨床、研究ともに)をもとに、現代のネットユースの状況が人の心理面に与える影響、また現代ではもはや不可避となったネットといかに関わっていけばいいかについて平易な文章で語っています。いろいろとグサグサ刺さるところがあったので何か書いておきたい、具体的には自分のネットユースの状況についての振り返りと、何かしらの改善が必要な点をまとめたい。

 

内容の紹介はご本人がブログで詳しくされています。

『「いいね」時代の繋がり――Webでこころは充たせるか――』を出版しました - シロクマの屑籠

 

 

「キャラクター(特徴)」消費的コミュニケーションについて

 「キャラクター(特徴)」の消費とは、決して単純ではない、多くの特徴と複雑さを持った、全体としての人間を把握することを放棄して、沢山あるうちの限られた属性のみを過大に評価して相手に期待、または自ら積極的にアピールすることである。そしてそうした一面に偏った基礎をもとに成立するコミュニケーションがネット上のコミュニケーションでは多く見られるという。フィクションにおいてメガネをかけた子はあくまでも「メガネっ子」であり、たとえ他にそのイメージに反する多くの属性や個性(アナコンダを飼っている、サディストである、箸を正しく持てない、勉強が苦手、果物が嫌い、などなど)があったとしても、あくまで第一優先で「メガネっ子」であることが優先され、他の属性は捨象される。そしてその文脈において「メガネっ子」は「メガネっ子」の役割を全うし、周りの人間もその子を「メガネっ子」として受容する。

 フィクションならばそれは別に問題ない、むしろそうした「キャラクター」、分かりやすい属性、がないと物語は進んでいかない。それこそ人間の複雑さを描写するだけで物語が終わってしまう(そこに挑戦する作品も最近増えてきているように思う、いわゆる日常系の物語がそれにあたる。しかしそうした作品にしても当然のことながら単純化を完全に免れることはできない。それこそリアルのコミュニケーションにおいてもこの種の単純化は免れ得ない)。そして、ネット上のコミュニケーションにおいては往々にしてこの「キャラクター」的なコミュニケーションが行われており、それは行き過ぎるとまずいんじゃないの、とのこと。

 よく分かる話だ。自分自身半年前からブログを細々と書いているが、ここで書いていることだけを読んでも分かることはあくまで一面に過ぎないだろーなーと思う。ここで書いているのは、日常生活ではまず話す機会の無い、有益であるかどうかが未確定の、気まぐれの内容が多い。しかも少なからず特定の話題(趣味)を偏重して記事を書いている。リアルではアニメや漫画の話をすることもまず無い。いわんやフィクションとは言え残忍非道なシリアルキラーを堂々と好きだということも無い。きちんと説明しないと良識を疑われそうな「不道徳な」ことは怖くて話せない。だからこのブログを読んで分かることは、俺が強く興味を持ち、かつオフラインでは話す機会の少ない、ある程度字数を費やして話さないとまとまった形にならない話題について、それをどのように語るか、またそうした文章を書くことで他人からどう思われたいと欲望しているか、に限られる。しかもテキスト情報のみ。同じ内容をもし目の前にいる人に話す場合には、どの様な表情をして、どんな声を出して、どれくらいのスピードで、イントネーション、身振り手振り、呼吸、目配せ、匂い、などなど列挙不可能なくらいの様々な要素が絡まってくる。特に親密に付き合って行きたいと思える人をインターネット上で見つけたら、実際に会ってみることを著者は強く薦めている。

 ちなみに、私にとってこのブログはそもそも「リアルの知り合い宛の少し長めの自己紹介」を兼ねており、対面のコミュニケーションの補完を目指している。現在既に知り合っている人たちと未来に知り合う人の両方を想定している。どの程度成功しているのかは自分ではちょっと分からない。

 

キャラクター(特徴、記号)を使い捨てるよりペルソナ(仮面=人格)を積みたい

 著者は第四章「ネット自己愛充当と、どう向き合うのか」において、様々な理由(核家族化、都市化、コミュニケーション能力の格差拡大、理想の肥大など)を背景に、ネットを介した豊かな人間関係の構築は現代人が逃れることができない課題だとした上で、3パターンの処方を提示しています。

 

  1. 現実の人間関係をはみ出さないでネットを使う場合
  2. ネット固有の人間関係を育てるには
  3. 「現実なんてまっぴら御免」な人はどうすべきか

  

 下に行くほどネット上での活動のウエイトが大きくなります。どれを選択するかは個々人がどうネットを使って行きたいかによる。で、俺の場合は「2. ネット固有の人間関係を育て、かつリアルの補完を行う」使い方をしたい。そのために、キャラクター(特徴、記号)に頼りすぎることなく、できるだけペルソナ(仮面=人格)を育てていくような意識でやりたい。で、それはあんまり俺本体(?)と乖離しないような形が望ましい。以下説明。

 

 どうしたってネット上でのコミュニケーションは一面的にならざるを得ないです。俺はブログにもツイッターにも書きたいことしか書きません。でも人間って書きたくないことややりたくないことや嫌いなことも全部ひっくるめてその人のはず。そして、それを全て記述することは不可能です。でもそれは別にネットサービス上に限った話じゃあない。リアルのコミュニケーションにおいても伝えられることなんて一面でしかないし、人によってはネット上よりもよほど強固なキャラクターを構築してそれを演じ、相手にもキャラクターを要求する人も居るでしょう。で、それは必然的にネガティブなこととも限らず、そもそもがそういうもんだと思ってその上でどうするか、と考えた方が現実的に思える。人は仮面(ペルソナ=persona、人間、人格)をかぶることをやめられない。ネット上にもリアルと同様、まあ少し違った形での制約があることを自覚し、その一面性を何とか上手いこと管理するよう努力する、と。で、キャラクター的コミュニケーションに依存し過ぎ無いほうが長期的には楽しいと思う。

 しかしキャラクター的コミュニケーションって確かに最大瞬間風速が大きくて楽しいんですよね。俺は最近、というかこの1年くらい『咲-Saki-』という作品にかなりハマっているのですが、「咲-Saki-キチ」同士のコミュニケーションって本当ちょっと危険なくらい面白い。ところどころで基本的な文法のようなもの(淫夢語、SS上の風潮)が出来上がっており、それらの簡単な知識と作品に対する愛があれば強烈に面白いコミュニケーション空間に参加することができる。何かもの凄い偏ったことを発言している気がするがまあいい。小林立先生は神。

 話がそれました。とにかく俺は『咲-Saki-』が好きで好きで、それは俺のキャラクターには違い無いのですが、それで終わらせるのは勿体ないのでせっかくですそれも俺のペルソナ(人格)に組み込んでしまいましょう、というかもう既になってる。そんな風にキャラクターも人格になるまで煮詰めてしまうというのも処方のひとつなんじゃないですかね。ひでえ結論。

 あとは、なるべく主興味分野以外のことも書くように、色々な内容を書くよう心がけるといったところか。これは少し意識している。 

 

 まあそれより何よりブログもツイッターもコミュニティ構築云々以前に「書きたいから書く、好きなことを好きなように書く」というのが一番強く、他は副次的なものだ。それは忘れないようにしたい。これからも色々書きます。

 

 要約メモ、一口感想:

 一面性を逃れ得ないコミュニケーション→ありもしない「本当の自分」を追い求めるのではなく、ひとつのペルソナと割り切った上で、そのペルソナを育てていく、という認識

 「捨象しない言葉の集積」としてのブログ→人間の全体像をできるだけ損ないたくないならば、刈り取りをし過ぎないというのもひとつの手段

 「自己愛の否定ではなく、自己愛の成熟」。作中で繰り返し語られる、本書のメイン・テーマ。年齢に応じて程よく自らを心理的に満たしてあげることを肯定し、そのために適切な手段を講じること、地道な努力を重ねること。

 精神的に余裕がある時に、ヘイブン(避難所)としてのネットコミュニティを育てておくこと。リアルでどん詰まることは誰だってある。そうしたリアルでのコミュニティ以外に所属するコミュニティを持たない場合、余裕の無い、あるいは冷静ではない愚かな選択をしがちだ。リアルで行き詰まっても、ネット上にそれとは全く別個の人間関係を育てておくことは、決して無視できないプラスの作用がある。平たく言えば余裕が生まれる。これって学校でのいじめの問題とも同じ構造ですよね。コミュニティを学校しか持たないから、いじめられている子たちにとっては学校内部で立ち行かなくなることが社会的な死に直結する。

 意見が違うもの同士でも、そこそこ仲良く長く付き合うことができる。自分の相手に対する期待値を程よく落としていく=成熟。理想を捨てるというネガティブな言い方も出来るかも知れないが、しかし理想は基本的に自分の中で育てるもので他人に、いわんや他人のイメージに依存していいものではない。

 自分のTwitterフォロワーに、本名も職業も出自も全部割れている人が少しいる効能について。まあシンプルに暴走を防いでくれていると思うのでプラスに捉えている。その代わり趣味や性癖全開の記事やつぶやきは、もし読んでいたらきっと苦笑いだろうなあと思う。このくらいの恥ずかしさは持っていても構わないかな。

 「見たいものしか見ない」SNS→自分の嫌な情報も意識的に取り組むことが必要

 余談:顔文字を使わないメールの難しさ。全くそんな気はないのに何故か怒っているように見える携帯メールの不思議。

 

ちなみに初めてKindleでの書籍購入。専用端末やタブレットは持っていないので、全部iPhoneで読んだ。スキマ時間でちびちびとでも読み進められる利便性は捨て置けない魅力がある。しかし読み終わった後の余韻に乏しいのはなるほど決定的な違いだと思った。

 

《参考》

仮面の解釈学

仮面の解釈学