自分の言葉を獲得すること / 漫画『惡の華』感想(1〜8巻)

先週末は少し立て込んでおり、ここのところ自然に守れていた「土日に記事を一本更新」ができず少し敗北感がある。ルーチンというのはそうそう崩すものではないですね。仕方がないのでドラゴン怒りの平日更新。

 

少し前に原作漫画『惡の華』を7巻まで一気読みした。8巻も出ていると聞いて近くの書店で買って読んだ。めちゃくちゃ面白かった。「めちゃくちゃ面白かった」では100分の1もこの感じを表現できてねーなーと感じたので駄文を綴ってみる。

 

惡の華 (8) (講談社コミックス)

惡の華 (8) (講談社コミックス)

 

 

ロトスコープで話題になったアニメの方を見るモチベーションを失いかけていたころに、なんとなく「このまま見なくなってしまうのは勿体ない」と思ったのでリハビリも兼ねて漫画のほうを借りて読んだ。それが大当たりだった。今まで色んな漫画を読んできて、当然それぞれに違った感想を抱いてきたわけだが、この作品ではまた全く覚えのない感情が沸いてきて新鮮だった。こんな風に書くと随分と醒めた態度に聞こえるけれど、実際には随分と湿っぽい、あるいはみっともない読書体験だった。何と言っても「他人事とは思えない」作品だった。読んでいて落ち着かない、何故かこちらが恥ずかしくなる、居た堪れない、そんな作品だった。以下最新刊を含むネタバレありです。

 

「どこにも行けない」「なぜか全ての鉄が錆びている」田舎町を舞台に7巻途中まで物語は進む。7巻途中までの中学編の大筋は、とにかく絶対量は大きいがどうすれば良いか分からないエネルギーをもて余した中学生3人が、それを社会的に認められている方法で昇華できずにひたすら面倒な方へと突き進んでいく話である。しかしこの主人公たちがそれぞれに感じているどん詰まり感、私にも覚えがある。勿論全く同じ体験ではないが、小さな町の中に充満する「どこにも行けない」感じ、自分のエネルギーをどう処すればいいのか分からない焦燥、とでもいいますか。

 

どこかで覚えのある感じ

少し自分語りです。

私は人口1万人にも満たない、山に囲まれた小さな町で生まれ育った。小学校も中学校も選択肢は一校(町立)しか無く、エスカレーター式に進学が決まるような規模の。中学生当時、そこで暮らしていることに対して具体的に大きな不満は無かった。しかし、上手く説明のできない不全感があった。そのせいもあり高校進学の時には実家を出て人口数十万の都市に引越し、そこで寮生活をしながら学校に通った。この時は自分にも上手く説明できないくらいの強い衝動にかられて、反対する親を説得してその進路を決めた。

私はこの漫画の主人公たちほど自覚的では無かったので、あの時に自分を苛んでいた閉塞感に上手く説明を与えること出来なかった。しかし今なら少しは上手く言葉にできる。俺はあの時、とにかくあの育った小さな町から外に出たかったんだと思う。世界があの山に囲まれた狭い空間だけではないということを確認したかった。実際、山に囲まれた故郷から外に出て過ごした高校3年間は随分と楽しいものだった。故郷では冬には雪が降り基本的に曇天が続く。しかし高校3年間を過ごした土地ではそういうこともなく、夏も冬も晴れの日が多かった。随分と風通しが良く、広々として、楽に過ごすことができた。冬には曇り(灰色)がデフォルトの故郷から外に出ることが出来て、こういう世界もちゃんとあるのだな、と思った。

私は現在東京に住んでいるが、年に数回は故郷に帰省している。新幹線や高速バスを使えば数時間で帰れる距離だ。寝ていればすぐに着く。しかし、今の私が東京から故郷を見たらたかだか数時間の距離だが、中学生の私が故郷から東京を見た時は「たかだか数時間」とは感じられなかった。物理的な距離と心理的な距離は大分違うようだ。

私は中学時代に鬱積していたエネルギーを、高校に進んでからは社会的に容認される方向で(スポーツに没頭する)たまたま上手に消費することができた。しかし、そうしたはけ口を見つけられない人はどうすればいいのだろう。

 

この作品の象徴的存在である仲村さんは、主人公の春日と関わっている時は正直欲情しているとしか見えない表情をしているけれど、その強大なエネルギーを性的な形で発散することを病的に嫌っていた(多分母親の影響だろうなあ…)。それを、大人の言葉に回収されない形で爆発させることを追い求めていた。

春日は自分が「他人と同じつまらない人間であること」が耐えられないようだった。自分を特別な存在だと思い込みたい、そして自分では理解不能な領域に軽々と踏み込んでいく仲村さんに恐れながらも憧れ、そのうちに深く執着するようになった。

佐伯さんは、優等生である自分に漠然とした不満を抱いていた。社会的には上手くやっているはずなのに、中学校のテストで平然と「0点」を取ってしまうような仲村さんに強く興味を持つようになる(佐伯さんの仲村さん好きは異常)。途中からはどちらかというと春日よりも仲村さんに自分を見て貰いたいという欲求の方が強くなってるんじゃないかな。

 

彼ら3人はそれぞれが違う意味で自身のエネルギーをどう処すればいいか戸惑っていた。そして終いには窃盗、放火、強姦と罪を重ねていく。そして3人はそれぞれに不全感にケリを付けること無く中学時代を終える。

 

この3人以外の無関係な人たちから見た場合、この出会いは不幸なめぐり合わせでしかない。しかし、当事者のこの3人にとってだけはこの出会いは得がたい幸福な出会いだったとも言えるんじゃないか、と俺は思う。仲村さんは、6巻ラストで春日くんが色んなものを捨てて自分のところまで堕りてきてくれて、めちゃくちゃ嬉しかったんじゃないかな。あれだけでも春日はでかい仕事をしたしちょっと褒めてあげたい。佐伯さんにしても人生の早いうちに自分のいろいろとマズイところに出会うことができてよかったね(8巻を見たら大分残念な感じになっていたが)。社会的には彼らは超問題児で、犯罪者だろう。しかし、俺には彼らを裁くことはできない。彼らが人間として罪を犯したかどうかがイマイチよく分からない。行政と司法で適当に裁いていただければと思う。

 

過去に負った傷に適切なかたちで言葉を与えること。語り直すこと。

漫画8巻までを読んでの高校編の感想です。雑誌連載は今のところ追えていません。

中学校では自らのエネルギーだったり不全感だったりを上手に処する方法に対して全く無知な3人が無茶苦茶やって破壊的な方向に進んで行った。高校編はそれほど派手な(警察沙汰になるような)ことにはならないと思う。中学生の時に決着をつけることに失敗して宙ぶらりんのままの自意識の供養だったり、それとの上手い付き合い方だったりを春日、常磐さん、晃司の3人で探っていくのだろう。

8巻で常磐さんの小説のプロットを読んだ春日が涙を流して「これ…この主人公…これは僕だ!」と激賞する場面は震えながら読んだ。どうやったらこんな言葉が出てくるの? 作者はきっとこれまでの人生をすげえ丁寧に生きてきたんだろうなあと感じた。あとここの常磐さんがエロすぎてやばい。まあ実際何よりも恥ずかしいことでしょうからね、自分の小説のプロットを他人に見せるなんて。

この先大学編、少なくとも仲村さん再登場はあると思う。高校編では常磐さんが自分の言葉で物語る手助けを(知らぬ間に)春日はしているが、やっぱり春日も自分の言葉で物語る必要があると思う。自分を救うために、あとやっぱり仲村さんのためにもね。

しかし、佐伯さんは誰が救ってくれるのだろう? あの中学編の一連の事件で誰よりもダメージがでかかったことがよく分かる再登場だった。第8巻のあの男に媚びた目が標準になった彼女の登場はなかなかのインパクトがあった。というかよく似た残念な女が大学に居たな…。服装もそっくり。第8巻p155の「なんで?」以降の彼女はかなり魅力的だったが。ちなみに第5巻ラストで春日をレイプした後に春日の家に押しかけた黒ワンピース&長髪バッサリの佐伯さんは超絶美しかった。作中女性キャラベストを争う勢い。どん詰まりもどん詰まりのあの今にもぷっつり切れそうな妖しさは素晴らしかった。

 

連載中の作品なのでまた何か感じることがあれば書きたい。

 

【雑感メモ】

人生のどこかの時点で一生分の祝福を受け取ること(cf. 遠坂凛ウェイバー・ベルベット)。6巻ラストで春日が仲村さんのところに堕ちるところ、8巻で春日が常磐さんのプロットに感激して賛辞を贈るところなどはそれに値するレベル。

本当に大切な物は自分で手に入れることはできない。他人からもたらされる。(←本当に?)

神話を語り継ぐこと=民族単位での、千年単位でのトラウマ克服の儀式

語り直すこと、物語ること、自らのキズに自分の言葉で形を与えること。自分の言葉を獲得すること。