【さらに追記あり】エンドロールが名作を台無しにした【咲-Saki-阿知賀編実写劇場版感想】

(下の方に2月1日、2月3日の2回にわたる追記あり

 

批判記事なんて基本ミジンコのクソ程度の価値しかないし(ミジンコがクソをするかどうかは知らん)死んでも書くことはないと思っていたけど、3日経っても怒りが収まらないどころかより増幅されるばかりなので書きます、書いて放流します。多分10人に1人くらいはこの怒りに同意する人もいるだろう。この記事はその1人のために、これを読むことでその人が楽になることもあるかも知れない、という思いで書くわけでは全くありません。ただ本当に許せないからキーボードをぶっ叩いています。以下怨念です。

 

 

素晴らしい点、目頭が熱くなるシーンは沢山ありました。これだけ丁寧に作ってくれて、咲-Saki-を愛してくれてありがとう、とも思いました。そんな気持ちも、あのエンドロールで台無しになりました。120分の物語を見て胸がいっぱいになっている時に、エンドロールで唐突に出演者達のメイキングオフショットが入り、トドメに桜田ひよりの署名入りコメントが大写しになる。これが、どうしても受け入れられない。

 

咲-Saki-という作品は、魅力的なキャラクター、ぶっ飛んだ設定、それにリアリティを与える細やかな工夫、先の読めないストーリーといった個々の要素も勿論高いレベルにありますが、そうした諸々が奇跡的なバランスで生み出している「世界観そのもの」にこそ最も強い魅力、特異性があると俺は認識しています。こう言うとまどろっこしいんですが、要は俺は咲-Saki-の世界は実際に「ある」と感じている、ということです。ただそれを俺たちが生きる現実の世界とは同じ方法では知覚出来ないだけであって。これは多分正しい意味で宗教的な観念なので、その感覚を共有することの無い人からすれば「ああ、頭がおかしい人の妄言ですね」と切り捨てられても仕方ないと思う。しかし、自分を偽らずに率直に語るとこういう表現になる。俺にとって咲-Saki-相対評価で見れば100点満点のうち70点なのに絶対評価だと100億点になる無二の作品です。フィクションの持つ真の可能性を示してくれる漫画です。ただその作品を見て面白い、面白くない、いい出来だった悪い出来だった、というだけではなくて、「この作品世界は、多分、俺達が生きるあり方とはほんの少しだけ違うあり方で、確かに今ここに存在している」と思わせてくれる作品なんです。どれだけ言葉を尽くしてもこればっかりは本人が実際に体験するしか理解出来ないと思う。

 

だから、エンドロールまでやりきって欲しかった。最後の最後まであの馬鹿馬鹿しい物語を大真面目に演じきって欲しかった。咲-Saki-の世界を作りきってほしかった。

 

それまで役柄を一生懸命演じてその宇宙を作っていた役者たちの演技以外の姿を、まだエピローグ(かつプロローグ)も残しているエンドロールの画面で見せられる。あれ? さっきまで当の本人たちが必死こいて作り上げていた物語は何だったの? 全部まやかしだったの? いやもちろんまやかしなのは知っているけど、そのまやかしをどう消化(昇華)するか、そこからどんなスピードで覚めていくかは観客個々人の自由ではないの? それも含めての「映画を見る」という体験では? なんで作品のパッケージングの最後の最後でこんな蛇足を……。単なる若手アイドル達のプロモーション・ムービーに堕してしまった。いや出演者達が「咲-Saki-」をステップにより活躍の場を広げていってそれぞれハッピーになっていく、というのは一番嬉しいことなんです。でも、それはあくまで作品世界を完結させたその後で、というのが筋だと思う。

 

上映後の出演者挨拶とかは別ですよ、鑑賞者もそれを予め了解している訳だから。ただ、せめて映画のスクリーンの上でだけは咲-Saki-の物語に浸っていたかった。学生時代の赤土晴絵が麻雀卓で咲-Saki-阿知賀編原作を読みこんでいる姿を、あんなタイミングでは見たくなかった。作品世界と役者を軽んじ過ぎてはいないか? 

 

オフショットは映画BDの特典ディスクに収録すればよろしい。オフショットの内容自体は微笑ましくて素晴らしいと思うし、そういう形式ならば俺も是非見てみたかった。何故、映画の余韻が残るエンドロールに差し込む必要があるのか。生理的な嫌悪感がある。いやらしい。素人臭い、制作側の甘えを感じてしまう。「キャストもスタッフもこんなに楽しく仲良く一生懸命映画を収録しました、たとえ出来がイマイチな点があったとしも、批判は遠慮してくださいね」というメッセージが伝わってくる。1年前の劇場版エンドロールにも同様にオフショットが挟まり、その時も強い嫌悪感を覚えた。しかしそれを上手く言語化できなかったし、正直、その嫌悪感を認めたく無かった。1年経って、同じ形式のものをもう一度見て、はっきり分かった。あのエンドロールは咲-Saki-の世界と、役者たちのプロフェッショナルとしての矜持を傷つけている。俺はこれは嫌だ。何度も言うけど特典ディスクで見たかった。立先生が「エンドロールのオフショット大好き」って仰っていたのも分かる、内容自体は素晴らしいんだから。ただタイミングが。。。 

 

監督のセンスだかスポンサーの意向だかキャストが所属する事務所の圧力だか知らないが、本当にあの決定に反対する人間は居なかったのでしょうか。がっかりです。あれだけはどうしても受け入れられない。あの決定をした人間の思想を好きになれない。我ながらめんどくせーなとは思うけどこればかりはどうしようもない。

 

その他イマイチな点:

何故地方都市のカルチャーセンター会場みたいなところで競技人口1億人を超えるメジャー競技の全国大会が開催されるんだろう? 前提の説得力が薄れる。原作及びアニメで会場が東京国際フォーラムだったのは無茶苦茶な設定にリアリティを持たせるための必然性があったのでこの改変は残念、予算の都合と言えばそれまでですが。今回の小林立先生のブログの更新から色々な事情が一気に察せられ、これまでと同じように素朴に「まあ立先生が喜んでいるなら良いか」とは思えなくなってしまった。

 

良かった点:

上記以外のほぼ全て。映画のちょうど真ん中あたり、浜辺美波さんの宮永照コークスクリューツモを見た時は「これだけでも見に来た価値はあった」と思ったよ。小鍛治健夜プロ役の東亜優さんの乙橘槇絵み溢れる孤高の最強雀士演技がかっこよすぎた、なんとなく不健康な感じも非常にグッド。新子憧役伊藤萌々香さんの横顔が美しすぎる。全体的にキャストの顔が良すぎる。演技全般も真剣で切実で、実写にあたっての細かな調整や追加シナリオ&台詞なんかも素晴らしい。基本的に改変はどんどんしてもらってOK、むしろ漫画原作かつアニメで強い世界観を作り上げている作品を実写に「翻訳」するにあたり、いろいろと積極的な修正は不可欠と考えるので。そういう意味では非常にいい仕事をしている。まじでいくらでも良い点を書き連ねることが出来る。素晴らしいんだよ。それだけに惜しい。

 

俺も咲-Saki-実写プロジェクトを愛したかった。

 

 

【追記 2月1日】

 

 


興味深い指摘なので他の映画のスタッフロールを眺めている時の感情を振り返ってみましたが、出演者や制作スタッフ一覧の文字列については全く気になりません。とりあえずシン・ゴジライコライザー崖の上のポニョの時を思い出しましたが、ふーん、へー、この人達なんだ、面白い物語を有難う、ということを思うでも無く思っていた、ような気がします。さらに言えばそれ以上に、作品が面白すぎて興奮が覚めず、文字列を眺めていても全く頭に入ってこない、ということもあります。スタッフロールに唐突に知人の名前が出てきたりすると「うっそまじあれ○○さんが手配してたの?」とびっくりしてしまいますが、その場合も興ざめするということは無いです。

 

基本的にスタッフロールは作品における責任と功績の所在が誰にあるかを明確に示すものとして不可欠と考えます。物語の虚構性を暴くものには違いありませんが、あのくらいでは気にならない、という感じでしょうか。あとやはり文字と画像のインパクトの違いというのは大きいですね。しかしたとえ手書きではなくフォント表記だったとしても、今回のようにキャストの感想コメントのようなものが映っていたとしたら同じように吐き気を催していたでしょう。機械的に控えめに、果たした役割の事実の列記のみで、粛々と締めて欲しいというのが正直なところです。

 

今回分かったことですが「役者は作品世界を現実にするために奉仕すべき」という思想が私の根本にあるようです。役者は「自分以外の存在になることが出来る、そしてここには無い世界を現実にすることが出来る」からこそ特別であり、尊敬されるべき存在、という考えです。シャーマニズムって言うんですかね、他の存在になれるって凄くないですか。SNSなどで有名人のオフショットが日常的に流れてくる現代においては時代遅れな考えかも知れません。しかし、ことフィクションを創り上げることにおいては、最後まで愚直にやりきった方が貫通力(観客の精神を刺す力)が高いし、それでこそ役者の価値もより高まると今でも思います。思想が近代の域を脱していないと批判されたらまあその通りですが、別にそれが間違いとは思いません。

 

また、漫画でもアニメでも実写映画でも同じですが、作り手側の仕事の1つとして「見た人が批判できる自由を残す」ことが非常に重要と考えています。つまらなかったらつまらないと言う権利が見た人にはある。エントリ本文にも書きましたがエンドロールで楽屋ネタを見せるというのが、どうにも言い訳がましいというか、「客に媚びる気持ち悪い目配せ」のようで嫌いです。

 

しずあこポッキーゲームは最高でした。ああやって映画の外でガンガン悪ふざけしてくれるのは大歓迎ですね。現場からは以上です。

 

 

 

【追記 2月3日】

 

 

 

 

このエントリを公開して3時間後くらいに監督がツイッターで直接言及されており、そこには〈EDのオフショット特に「麻雀最高」が嘘か本当かという問いに集約される〉とあるが、意味がよく分からなかった。だって例えば桜田ひよりさんが「麻雀最高」って言っているのだとしたら(あの署名コメントはあまりに苦痛で直視できず役者名以外よく覚えていないので、おそらくあそこにそう書かれていたのだろうと仮定して)、それは俺も本当だと思うから。役者たちが全力で麻雀を楽しんでこの物語を作っていたことには何の疑いも不満もない。これは本文でも既に繰り返し書いているつもりです。

 

それでもこのテーマについて監督が他の人と色々話している内容を全部読んでみて、監督の考えについて納得は出来なくともある程度の理解は出来た。また、俺個人としては監督からリアクションがあるのは僥倖だけど、基本的には監督がいち観客の不平不満に逐一反応する必要も無いし、むしろするべきではないとすら感じる。その意見にいちいち左右されるようでは駄目だとも。その点ではリアクションはしつつも「まだ明確には理由を言語化出来ないが、あの選択は間違っていない」と考えておられる点はむしろ良かった。平行線ですね。

 

これまで千単位のかなり多くの人がこのエントリを読んで様々な考えを表明してくれたので、結果として公開する意義が大きかった。また、何故ああいう感情を抱くに至ったのかが分かってきて興味深かった。どうやら自分は広くフィクション一般に対して、もちろん咲-Saki-においては特に、出来ればそれを通して《聖性》を体験したいという欲望がある、らしい。こちらも全身全霊をもって見るので、役者も全身全霊で演じて欲しい、この世ならざるものを現出させて欲しい、不可逆的なダメージをこちらに与えて欲しい、そしてそのためには愚直なほど、部外者から見たらクソダサいほど「なりきって」最後までやりきって欲しい、こんな欲望。まあでも自分が好きなものに自分の望むまま存在して欲しいと願うのはめちゃくちゃ醜悪な欲望なんだよな。それは分かる。